2006年6月29日

とふや、こうや、たたみや

私の故郷は、昔からのいい方でいうと、摂津国有馬郡上大沢村です。「大沢」は「おおぞう」と読みます。
うちの近所では、家(うち)の呼び方に3種類ありました。
  1. 戸籍上の姓で呼ばれているうち:榎本、辻井 etc.

  2. 地名にちなんで呼ばれているうち:とっとうえ、どのうえ etc.

  3. 職業名で呼ばれているうち:とふや、こうや、たたみや etc
「榎本」家、「辻井」家は安政時代から名字帯刀、藩主(三田藩:九鬼家)の目通りを許されていた名士です。

「とっとうえ」は「一番上」という意味で、ここのうちは、村で一番標高の高いところにありました。峠のこじんまりとした、わらぶきのうち。ここの「とっとうえのおばさん」も、いつも丸顔いっぱいに笑みをうかべている小柄なおばあさんでした。

「どのうえ」は「堂の上」。集落の上にお堂があったようですが、その上にうちがあったんでしょう。私が子どものころには、集落の中にうちを移していましたが、それでも、むかしどおり「どのうえ」さんと呼ばれていました。


不思議なのは三番目のグループなんです。「たたみや」はもちろん「畳屋」、「とふや」は「豆腐屋」、「こうや」は「紺屋」ですが、「たたみや」以外は、私が子どものころには、豆腐づくりや染め物をしていた様子はもうまったくありませんでした。
上大沢村は60戸ほどですから、こんなところで、豆腐屋や紺屋をやって商売になっていたんだろうかと、不思議に思っていたのです。


そして、私の実家は「森」姓です。周りからも「森」さんと呼ばれていました。ですから上の区分でいうと一番目のグループにあたるのかもしれません。でも、私のうちの伝説によると、ご先祖さんが、江戸時代に一度、夜逃げ(逃散)し、菟原郡(うはらぐん)森村へ身を寄せていたから、その後、大沢村へ戻り、明治になって「森」姓を名のることになったのだといいます。ですから二番目のグループに入りそうです。


ところが、先日、網野善彦さんの『続・日本の歴史をよみなおす』*を読んでいて、はたと思い当たりました。
網野さんは、この本で「百姓」=「農民」との従来の思い込みの誤りを指摘し、近世以前の日本社会が、農民以外にも多様な職業をもつ人々によってつくられた社会であったと主張しています。

筑摩学芸文庫版のpp.250-252で、江戸時代末期の『防長風土注進案』に記録されている、現在の山口県上関にあたる地域の職業別戸数が紹介されていますが、そこには、豆腐屋、紺屋、畳職も出てくるのです。

『大沢町誌』**には、江戸時代はじめの方の延宝年間に作成された「村明細帳」が収録(pp.90-97)されていますが、それをみると、上大沢村は、全67軒の内、高持百姓が53軒、無高百姓が14軒となっています。「無高」***というから土地を持たない小作人で貧しいうちかと思っていたのですが、「とふや」「こうや」「たたみや」はこの14軒の内に入っていて、田んぼを持たなくてもそれぞれの職業で暮らしていけたうちなのかもしれません。

同じ資料では、となりの中大沢村は、全64軒の内、無高地が26軒、4割をしめています。中大沢村は、明治時代1889年の町村制施行で、神付、上大沢、中大沢、日西原、簾、市原の6箇村が合併して「大沢村」になった時、村役場や小学校などが置かれましたから、それ以前からも周辺の村々の中心であり、「無高」のうちの多さは、豆腐屋や紺屋をはじめ、商業やさまざまな職人の存在を示してるのではないでしょうか?

また、私のご先祖さんたちが六甲山を越え森村へ出てきたのは、夜逃げではなく、ひょっとして、海運や商業をするためでは? 夜逃げしたことを記念して姓をつけるということは、ちょっと変でしょう。明治はじめのわが家の当主(私のひいひいおじいさん)がよほどのユーモアの持ち主でないかぎりは。



* ちくま学芸文庫『日本の歴史をよみなおす(全)』に収録
** 1991年、大沢町まちづくり協議会発行
*** 『大沢町誌』では別の箇所(p.71)で、「無高地=かくし田のこと」と解説していますが、「村明細帳」は藩主への報告書ですから、「無高=石高・田畠をもたないうち」ではないでしょうか?

2006年6月20日

1972年

小川洋子さんの『ミーナの行進』 *を読みました。
1972年(学校のひとくぎり)にはずいぶんいろんなこと**が起こったんですね。
私はミーナと同学年。語り手の「私」は1学年上ですね。『ミュンヘンへの道』も見てましたし、ジャコビニ流星群の夜も曇り空をながめてました。ただ、芦屋じゃなくて、六甲山の裏側をむこうの方にながめる小さな谷にいたのですが。
それにしてもこの小説には本への愛情があふれてますよね。主題はこっちの方じゃないかと思うぐらいです。

なんといっても私の好きなのは、「印刷間違い」をひたすら探す「伯母さん」。
「見つけるとどうなるの?」
「……別に、どうにもならない」
「分厚い本一冊を何日もかけて調べて、結局一つも誤植が見つからないこともある?」
「もちろん。滅多には出会えないのよ。宝石を掘り出すみたいなものね」
そして、ミュンヘンオリンピック・バレーボール準決勝戦……

こんなにも美しい「印刷間違い探し」さんを描いてくれた小川さん、ありがとう!


*2006年4月, 中央公論社刊(2005年2月12日 - 12月24日の毎週土曜日の「読売新聞」に連載
**この小説には触れられていない出来事も多数です。思い出せますか?
***写真は本の挿画にも使われている寺田順三さん作のマッチ。いっしょに写りこんでいる銀色のものは……

2006年6月18日

10年の空白: 1937.12 - 1948.4

岩波文庫『ガリレオ・ガリレイ 新科学対話』がことし2月にリクエスト復刊されていたのを、先日になって気づきました。いつ復刊なるかと待っていたのに、最近、大書店から足が遠のいていたせいで見逃していました。

手にとってみると、上下2分冊なのですが、(上)と(下)で本文の組方が変っているのです。正確な寸法はわからない*のですが、(上)は本文活字六号、1頁=43字詰×17行、(下)は本文活字9ポイント、1頁=38字詰×15行となっています。書体も違っています。柱も(上)では右から左への横書き、(下)では左から右への横書きです。




そこで、奥付を見てみると、(上)の第1刷は1937年12月15日発行なのに、(下)の第1刷は1948年4月10日発行。10年と4カ月も間が空いています。


この空白期間にあったのは、もちろん、第2次世界大戦。1937年は、日本が7月7日の盧溝橋事件を機に中国への全面侵略を開始した年。(上)第1刷発行日の2日前、12月13日には当時の中国の首都・南京を占領しています。

しかし、この岩波文庫の(上)に訳者がつけた「年少の読者に寄す」には、そんな戦争の影は一見、見えません。
私達が翻訳してここに皆さんの御目に掛ける書物は、(...)今から丁度三百年前の一六三八年に(...)
と冒頭にありますから、この一文は確かに1937年に書かれたものと思われます。もはや、戦争の影を書くことは許されない状況にあったのでしょうか。

訳者は今野武雄氏と日田節次氏。日本科学史学会**の「学会年表1941-1990」を見ると、戦中・1942年2月の第8回例会・第2回研究談話会の報告者の中に今野氏の名前があります。
戦後へ下ってみると、戦後・1946年の項に、今野氏は民主主義科学者協会(民科)事務局長として紹介されています。

そして、同年表によれば、(下)第1刷発行から1カ月後の1948年5月例会で、今野氏が「ガリレオの新科学対話について」と題する報告をおこなっています。

今野氏は、1990年12月15日発行の新日本新書『自然科学の名著100選』(上、中、下)の3人の編者の1人となっていますから、戦後も長く日本の科学史研究に貢献されている方のようです。日田氏については、googleでは『新科学対話』の訳者としてしかヒットしないようです。どんな方だったのでしょう。もしや戦争の犠牲になられたのでしょうか?


『新科学対話』は、天動説にたいする宗教裁判で弾劾、幽閉され、娘も視力も失ったガリレイが、近代科学を切り開こうとした自らの努力を、
今後、如何なる著作も公にせず、唯その全く地下に埋れ果てませぬよう、私の論題を学問的に研究さるる識者のみが利用し得る場所を求めて、手稿の写しを遺すやうに致したい ***
と、弟子に口述筆記させたものが、オランダで出版されたものといいます。(岩波文庫には、1674年にフィレンツェで発行された「第5日」(「ユークリッドの幾何学原本について」)は収録されていません)

第2次世界大戦:日本の侵略主義は、ガリレイがせっかく後世に遺そうと願った『新科学対話』の発行をも遅延させてしまったのですね。

* 復刻の際、少し縮小されているような気がします
** http://wwwsoc.nii.ac.jp/jshs/index-j.html
*** ノアイユ伯への献辞(上 p.11)

2006年6月15日

国民保護協議会observatio II(6/16加筆)

5月31日に傍聴した芦屋市国民保護協議会(第1回)の資料と議事録が公開されました。

芦屋市役所のホームページ*「くらしのハンドブック」「まもる」章の最後に「国民保護」の項があります。ここから新設された「国民保護」のページ
http://www.city.ashiya.hyogo.jp/kokuminhogo/index.html
へリンクされています。
資料と議事録はこのページからさらに階層を下って、「☆ 芦屋市国民保護協議会、同幹事会の開催」のページ
http://www.city.ashiya.hyogo.jp/kokuminhogo/kokuminhogo_kyougikai.html
にあります。
6月5日にひらかれた「第1回幹事会」のものもあります。
協議会当日に委員に配布された全ての資料と、(簡潔とはいえ)議事録も公開されています。

さて、まずは、兵庫県弁護士会の意見書などを参考にしながら、よく読んでみましょう。
そして、できれば仲間を募って勉強会もして、協議会委員への働きかけもしなくはと思ってます。


ところで、今回配布された資料には、芦屋市計画骨子と、県計画―モデル計画―芦屋市計画の目次対比表はあるんですが、県計画も消防庁発表の市町村のモデル計画も入っていませんでした。
県計画とモデル計画も芦屋市の「国民保護のページ」の末尾にある「兵庫県国民保護のページ」と「総務省消防庁」のリンク先にあります。



* 「狭義の」です。アドレスは、http://www.city.ashiya.hyogo.jp/

2006年6月9日

カット屋さんM.M.のお品書き

「9条ネコさん」を書いてくれた娘ですが、「お品書き」も作ってました。


資本主義社会で暮らしているんですから、作品への対価要求は正当ですね。これなら食いはぐれることもないでしょう。しっかりがんばっておくれ。

でも、もうちょっと国語のお勉強もしなくてはね*



* 「ご気望」じゃなくて「ご希望」1)、「時間体」じゃなくて「時間帯」2)だよ。

1) 」という字は「ねがう」という意味があるから、「望」で「ねがって、のぞむ」という意味。
日本国憲法第9条の1項に、
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に求し
と書いてあるけど、ここの「希求」は「ねがって、もとめる」という意味だよ。
でも、ただ、「ねがって」いるだけではダメなんだ。同じように「平和をねがう」憲法なら、たいていの国にある。日本国憲法9条がすごい!といわれているのは、その「ねがい」を実現するための具体的な手立てを決めていることなんだ。「戦力」(軍隊など)と「交戦権」(戦争をする権利)を放棄する(捨て去る)と決めている。それが第2項。
(2)前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
このことは、よくおぼえておいておくれ。

2) 「帯」という字は、幅のあるものを指しているから、時間の幅をいうなら「時間帯」。「体」って数学では、足し算・引き算、かけ算・割り算がぜんぶできるものの集まりのこと。時間の足し算・引き算、かけ算・割り算ってなんだろう。ちょっとロマンティックだね。

字を覚えるには、まず、本をたくさん読むこと。それから、お父さんの長~い話をガマンして最後まで聞くことも、役にたつかな(^_^)

2006年6月8日

9条ネコさん

うちの娘がこんなのを書いていました*

* ちょっと親バカかな(^_^;;

2006年6月1日

国民保護協議会を傍聴(6/4加筆)

芦屋市の「国民保護協議会」を傍聴してきました。
この協議会は「国民保護法」にもとづいて、各自治体がそれぞれの「国民保護計画」を作成するためにひらかれるものです。

「武力攻撃事態等」が起こったときに「国民を保護する」ための法律とはいうものの、人権を保障する具体的な手立てが不十分だと、日本弁護士連合会などからも懸念が表明されているもの。

芦屋市の協議会では、
「武力攻撃事態等は国の外交の失敗によって起こるもので、事態発生に市の責任はない」
けれど、市民の安全について市は責任を負わなければならないと事務局側が説明していました。


ところで、芦屋市は「芦屋国際文化住宅都市建設法」*1
「国際文化住宅都市として外国人の居住にも適合するように建設し、外客の誘致、ことにその定住を図」る
ことになってます。

また、1985年には市議会が「非核平和都市宣言」*2を決議しています。
「戦後いくたびか、
平和を願う人類の理性と決意は、
核兵器の使用と核戦争を防いできました。
わたしたちは、この理性と決意を信頼し、
かけがえのない生命の星、青く輝く地球を
笑顔にあふれる子供たちに残すため、
いまふたたび、心をひとつにして
核兵器を廃絶するよう、全世界によびかけます。
そして、国是である非核三原則の厳守を
強く希望するとともに、
わたしたちの街・芦屋をいかなる形であろうとも
核兵器に関連して使わせないことを自ら決意し、
ここに非核平和都市であることを宣言します。」

自然災害ではないんですから、芦屋市としても「国が外交上の失敗を起こさない」よう、積極的に行動することが求められるし、せっかく定住・来訪してもらった外国の人々も含め、市民の人権が侵害されることのないような計画をつくらなくてはならない*3のではないでしょうか。

それにしても... 計画作成までの協議会開催はたったの3回(あと2回)です。9月の第2回協議会には「素案」が提案され、10月に市民への説明・意見募集をしたあと、来年1月の第3回協議会でもう計画を確定してしまうというスケジュールです。これで十分な議論ができるのか心配*4です。

5月31日の第1回協議会は、事務局(市)側からの説明ばかりで、委員のみなさんからの質問・意見は2件(「協議会の内容をそれぞれの団体で議論してもいいか」「資料の扱いは」)だけでした(それぞれへの市長の答弁は「各団体で議論してください。必要であれば説明にうかがいます」「資料はすべて公開です」でした)。この日、傍聴者には資料が配布されませんでしたが、このような答弁がありましたので、会議終了後、この日委員に配られたすべての資料の提供を事務局に申し込みました。

いずれの市町村でも、国民保護協議会は一般の審議会と同様に「原則公開」「傍聴可」になっていると思います。気になる方はぜひ、お住まいになっている市町村に問い合わせて、傍聴してみてはいかがでしょうか?

*1 憲法95条に基づく「特別法」なので、1951年制定のときは住民投票を経ているはず。最終改正は1999年。いまも生きている法律です。
*2 全文は:http://www.city.ashiya.hyogo.jp/peace/index.html
*3 自治体の計画作成は法で義務付けられているので、「いらん」とはいえなくて...
*4 一昨年、「次世代育成支援対策行動計画」を作成したときは、事前にアンケート調査もし、5回の地域協議会と5回の原案策定委員会をひらいてます(さらに行政側だけの会議も数度ひらかれています)。それでも表面だけをさらっとさわったような議論しかできず、とても残念でした(私は地域協議会に参加してました)。それと比べても、「国民保護協議会」の開催回数はちょっと少なすぎ?



市町村が独自に基本的人権を尊重した計画を作成することは可能だし、法的には計画作成の期限は定められていない

兵庫県弁護士会は、兵庫県の国民保護計画作成にたいして、昨年3月と7月に「意見書」*5を県に提出しています。その中に、見出しのようなことが指摘されていました。

そうなんだ! 計画作成は義務づけられていても、もっとじっくり・たっぷり・おおぜいで議論を重ねて、憲法で保障された基本的人権を尊重した計画をつくることは、自治体で、もちろん芦屋市でも可能なんですね。

*5 昨年3月の意見書:http://www.hyogoben.or.jp/img/kokuminhogo.pdf
 昨年7月の意見書:http://www.hyogoben.or.jp/img/kokuminhogo050722.pdf
 今年1月の会長声明:http://www.hyogoben.or.jp/ketsugi/20060123.htm