2010年7月31日

とうとい

河津聖恵さんが、ブログで「とうとい」という表記を使っているのに気づきました。

「尊い」では、いかにも「道徳」いや、「修身」の教科書のよう。

とうとい」では「尊い」のように一目では読めず、「」「」「」「」と一文字一文字読まなくてはならないけれど、その間に、とうとい気分が染みてくるようです。

私もまねして「とうとい」と書くことにしましょう。

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2010年7月29日

続報:詩人・歌人による『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』

前の記事の続報です。
  • 執筆者が79人になりました。
  • ページ数も増えて312ページになりました。
  • 発行日が8月1日に決まりました。お届けは7日以降になります。
  • 京都朝鮮高級学校の生徒さんたちの作品集も付きます!(数に限りがあります。ご希望の方のみ)→詳しくは河津さんのblog
ということです。


世間ではこの問題は少し忘れかけられているような気がします。
このアンソロジーが起こす波が事態を前向きに進めますように!
「うた」に期待してます!

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2010年7月26日

詩人・歌人による『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』

高校の無償化はうれしいというより、やっとという感じなのですが、同じ年齢の青年たちが同じように学ぶ朝鮮学校が除外されるのは変です。うちの次男も高校時代、ラグビーで対戦するなど、他の分野では分け隔てなく扱われている学校です。

兵庫県の井戸知事は官僚出身で保守的な人ですが、朝鮮学校の無償化については「対象から外すべきではない」「朝鮮学校とほかの外国人学校と差を設ける必然性は、本県としてはない」「拉致問題の解決と引き替えにするような事柄ではない」と言ってます(ことし3月16日定例記者会見)。

ことし4月には詩人のみなさんがアピール集『言葉を紡ぐ者は訴えます』を発表しましたが、それに続いて今度は、詩とコメントのアンソロジーを発行するとの案内を河津聖恵さんからいただきました。




★★『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』のお知らせ☆☆

詩人と歌人、合わせて79名によるアンソロジーがもうすぐ完成します!
概要は以下のようです。

タイトル:「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」
仕様:A5判縦 312頁
内容:79名の詩人と歌人による、コメントと作品のアンソロジー。
頒価:1部1,000円(送料込)
発行日:2010年8月1日

参加メンバー:愛沢革、相沢正一郎、葵生川玲、淺川肇、阿曾都、石川逸子、一色真理、伊藤芳博、岩崎リーベル豊美、上野都、宇佐美孝二、内田良介、大田美和、大橋愛由等、呉香淑、呉紅心、呉順姫、金子忠政、上手宰、河津聖恵、北川朱実、金敬淑、木下裕也、金里博、金忠亀(短歌)、金芳順、金正守、金明恵、久々湊盈子(短歌)、康明淑、草野信子、 くにさだきみ、倉田昌紀、甲田四郎 、高賛侑、今野和代、斎藤恵子、佐川亜紀、佐相憲一、沢田敏子、柴田三吉、秦勝元、神泉薫、徐正人、鈴木比佐雄 孫志遠、髙塚かず子、髙木護、竹村正人、趙南哲、崔龍源、崔梨奈,蔡徳浩、津坂治男、辻井喬、寺岡良信、徳弘康代、苗村吉昭、永島卓、にしもとめぐみ、野樹かずみ、野村尚志、朴才暎、朴泰進 原田麗子、日原正彦、福原恒雄、許玉汝、松尾静明、松岡政則、御庄博実、水島英己、望月苑巳、山田隆昭、四方田犬彦、梁学哲、李芳世、龍秀美、呂剛明

詩と短歌の原点である「うた」が本来持つ「うったえる力」。
79名の詩人・歌人が除外問題に向き合い、
言葉の暴力と差別意識を越えたあらたな共同性をもとめて
この国の現在に向かって「うたいあげ」ます。
この問題に危機感を抱くすべての人に読んでいただきたいと思います。


ご購入希望の方は私のアドレス(kiyoe51803291アットkibドットbiglobeドットneドットjp)まで予約メールをいただくか、
郵便振替 00970-1-126241 足立聖恵(アダチキヨエ)まで
ご希望の冊数を明記し、お振り込みください。




なお、書面でいただいた案内を私が入力し直しましたので、誤字などは私=森=の責任です。

また、銀行から振り込む際は次の店・口座番号になります(これも私=森=調べ)
銀行名:ゆうちょ銀行
金融機関コード:9900
店番:099
預金種目:当座
店名:〇九九 店(ゼロキユウキユウ店)
口座番号:0126241


なお、河津さんのblog「詩空間」の記事にもっと詳しい事情が書かれています。ぜひご覧ください。


河津さんの詩は、現代詩文庫『河津聖恵詩集』が入手しやすいですよ。


(7/28 河津さんのblogにより最新(最終)情報に改訂しました)
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中山岩太とル・コルビュジエ

中山岩太氏は《福助足袋 1930年》で、1930年、朝日新聞社主催「第一回国際広告写真展」の一等を受賞していますが、その時の講評が芦屋市立美術博物館の「モダニズムの光華 芦屋カメラクラブ」展(2010/4/17-6/20)に展示されていました。
最も純粋的広告写真の本格に叶って居り、商業美術の合理的態度を示してゐる。それ故、この写真の立場は尖端的にはル・コルブジエの機械的合理的精神にも適応し、東洋画の風格的精神にも合流し得るものであることが顕示されてゐる。
執筆者名は展示された状態からは見えませんでした。

ところで、「ル・コルブジエ」というのは建築家ル・コルビュジエ(Le Corbusier)氏のことですね。Wikipediaによると、ル・コルビュジエ氏の歴史的功績は「鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性をモットーとしたモダニズム建築の提唱」。芦屋市立美術博物館近くに展開するシーサイドの高層住宅群もその流れを汲むものでしょう。

しかし、中山氏のこの受賞作への「機械的合理的精神にも適応し」という評価には、ちょっと違和感を感じます。受賞作のニュープリントは「渋谷文化PROJECT」のカルチャーニュースに掲載されています。他の作品もそうですが、「機械的」というよりもずっと「情緒的・ロマンチック」だと思うんですが... 当時は「機械的」というのがかっこよかったんですね。

ところで、ニュープリントは芦屋市立美術博物館で展示されていたのも「渋谷文化」カルチャーニュースに掲載されているのも、足袋の底がすこし黒ずんでいますが、講評といっしょに掲載されていた印刷物では諧調が単純化されて、すっきりした印象になってました。ていねいな研究をふまえてこのニュープリントになったのでしょうけれど...

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2010年7月18日

レーニンのいう「生活」とは何なのだろう

レーニン全集(大月書店版)を読んでいて不思議な用語に出会いました。

生活」です。

A: vol.24 pp.46-47「わが国の革命におけるプロレタリアートの任務」
この軽信的な無自覚性とたたかうことによってのみ(ところで、これとたたかうことは、もっぱら思想的に、同志的な説得によって、生活経験を示すことによってのみ、おこなうことができるし...
...
軽信的な無自覚性と無自覚的な軽信性とは、とくにプロレタリアと貧農のあいだでは、日一日と消えていくであろう。資本家を信じてはならないということを、生活(彼らの社会経済的地位)が彼らにおしえるからである。

B: vol.24 p.70 ibid.
生活は、革命は、すでに実際にわが国に、弱い、萌芽的な形態でこそあれ、まさにこの新しい本来の意味での国家ではない「国家」をつくりだした。

C: vol.24 p.136「ロシア社会民主労働者党(ボ)ペトログラード全市協議会」
無政府主義者とちがって、われわれは、社会主義へうつるために国家を必要としている。パリ・コンミューンは、労働者代表ソヴェト型の国家---組織され武装された労働者の直接の権力---、労働者と農民の独裁の雛形をわれわれにあたえた。ソヴェトの役割、このような独裁の意義は、反革命にたいする組織された暴力であり、多数者に依拠して、多数者の利益のために革命の成果をまもることにある。......生活は、プロレタリアートと農民の独裁を、ブルジョアジーの独裁と絡みあわせた。つぎの段階は、プロレタリアートの独裁であるが、しかしプロレタリアートはまだ十分に組織されておらず、啓蒙されていない。彼らを啓蒙することが必要である。全国にわたって、このような労働者その他の代表ソヴェトが必要であり、このことは生活の要求である。


『新潮現代国語辞典』は、「生活」の語義として、
(1) いきていること。生存して活動すること。
(2) 生存のための経済的な面。生計。活計。口すぎ。
をあげています。このうち(2)の意味が近そうですし、上の引用Aの2番目にも「社会経済的地位」と括弧書きされています。

でも、なんかしっくりこないのです。

私はロシア語は読めませんので、原文がどうなっているかわかりませんが、日本語の「生活」とレーニンがここで使っているロシア語「生活」とは、かなりのずれがあるのでは?


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2010年7月13日

ごくわずかな少数派がなすべきことは

ちょっと古い文献から…
 ロシアにおける現在の時機の特異性は、プロレタリアートの自覚と組織性とが不十分なために、過渡〔権力をブルジョアジーにわたした革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力をわたさなければならない革命の第二の段階への過渡〕ということにある。
この過渡は、(1) 最大限の合法性があること、(2) 大衆にたいする暴力が存在していないこと、(3) 平和と社会主義との最悪の敵である資本家の政府に対して、大衆が軽信的=無自覚的な態度をとっていること−−を特徴としている。
このような特異性がわれわれに要求するのは、ようやく政治生活に目ざめたばかりの、かつてないほど広範なプロレタリアートの大衆のあいだでの党活動の特殊な諸条件に、われわれが適応する能力をもつことである。
 ...いっさいの小ブルジョア的な日和見主義分子のブロックにくらべて、わが党が大多数の労働者代表ソヴェト内で少数派であるという事実を、しかも、いまのところわずかな少数派であるという事実を、みとめること。
労働者代表ソヴェトは、ただ一つ可能な革命政府の形態であり、したがって、この政府がブルジョアジーの影響のもとに陥っているあいだは、われわれの任務は、忍耐づよく、系統的に、根気よく、とくに大衆の実践的必要に適応したやり方で、彼らの戦術の誤りを説明することのほかにはありえないということを、大衆に説明すること。

レーニン「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」(1917年4月7日『プラウダ』)/大月書店版全集第24巻に収録されているものを少し書き換えました。

これは、10月革命の年、亡命先からの帰国直後に発表したテーゼの一部です。当然、現在の日本とは違う状況に対するものです。

しかし、日本も1945年の終戦、1946年の日本国憲法施行により、国民を主権者とする国にかわったものの、現在、大多数の国民がほんとうに主権者となっているのかどうか、という点では、レーニンのいう「過渡」……とても長い過渡期にあるのかもしれません。

10月革命前の「過渡」の特徴としてあげられている (1) (2) はそのまま現在の日本に当てはまります。(3) はというと…「最悪の敵」とか「軽信的」とか、レーニンらしく、激しい言葉(しかも“上から目線”)が続いていますが、これもけっこう日本に当てはまるかもしれません。どうでしょう?

そして、ほんとうの国民主権を実現するという革命の第二段階をめざす党が、国会や地方議会で「わずかな少数派」だということも、また、現在の日本の状況ですね。

革命党は少数派で、しかも今世紀に入ってからは低迷を続けていますが、一方、国民は全体として、長かった自民党政権を昨年の総選挙で終わらせ、その国民の期待に応えず右往左往した民主党政権に対し今回の参議院選挙で厳しい判断を示しましたから、歩みを前へ進めていることも10月革命前と同じでしょう。

こうした状況で、革命をめざす党の任務が「説明」……「忍耐づよく、系統的に、根気よく、とくに大衆の実践的必要に適応したやり方で」説明することだと、レーニンは言っていたわけです。


私たちに足りないのは、この「説明」の力なのかな……。きっとそう。

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2010年7月3日

選挙についての無用の詮索

ここ何回かの選挙では「マニフェスト」なるものを民主党、自民党など、「二大政党指向」というか、大洋の向こうの「正義の国」に憧れる諸政党が競ってきたが、今回の参議院選ではちょっと違ってきた。

みんなの党は「アジェンダ」、日本共産党は「選挙公約」と呼んでいる。


ところで、「アジェンダという言葉は、ラテン語の動詞「ago 為す・行う」の受動分詞中性複数主格形「agenda」らしい。つまり「為さるべき事ごと」。みんなの党が選挙後、このアジェンダにどう取り組むかは別として、選挙公約の名称としては、誠に妥当であろう。

ところが、「マニフェスト」という語もラテン語「manifestus」の中性単数奪格の副詞的用法に由来するらしいのだが、manifestusは「manus 手+*fendo 打つ」=「手で打たれた」→「手応えのある」→「明らかな」という意味であるから、「manifesto」は「宣言」という伝統的な訳が、やはり妥当であろう。つまり、マニフェストという語の語義自体には、その文書の内容を実行するかどうかということまでは、本来、含まれていない。「表明するだけで十分なのである。

民主党が、そこまで深く「マニフェスト」という語の意味を掴んで、この間の国政選挙で使ってきたのだろうか。私は、きっとそうだと思う。なぜなら、民主党が過去のマニフェストの「実行」にあまり熱心そうには見えないからだ。



以上、無用の詮索であるし、ラテン語文法・語源論も生兵法の謗りを免れぬものである。
笑って読み捨てられたし。

従来の自民党政治、とくに近年の構造改革路線で苦しい目にあわされてきた労働者、地方の要求が民主党のマニフェストに反映したし、政権交代も実現した。その後、そういう政治の変化に危機感を抱いた、大企業・財界とアメリカ合衆国政府が巻き返しにでたのが、この間の民主党の政策的右往左往、マニフェスト違反のほんとうの原因なのだそうだ。



:これは英語訛。“正しい”片仮名表記は「アゲンダ」である。