2006年8月23日

ゲド戦記/The Books of Earthsea

宮崎吾朗氏の「ゲド戦記」はやはり観にいかないことにします。

娘(カット屋さんM.M.)にせがまれて映画「ゲド戦記」の解説本(小学館)を買ったのですが、原作とちょっと違いすぎません? 映画は独立した作品ですから、違っていて当然なんですが...

原作のアレンは、それなりに貴族としての立ち居振る舞いを身につけ、そして、ゲドに見込まれるだけの素質はもっていますが、それを除けば、ごく普通の青年ではないでしょうか。だからこそ、思春期の葛藤の中にある若い読者が共感できるのでは?
映画のように父殺しをするほどに心を病んだキャラクターにする必要があるんでしょうか?

テナーが村人たちから蔑まれるのは、「女まじない師(原作はそうでないけど)だから」ではなく、「女性だから」として描かないと、"Tehanu"の主題はなんだったのか?となりますよね。

テルーも美人すぎ。やけどのあとが目立たないです。これではテルーが受けた心の傷もわからなくなるのでは?


娘も解説本を見て、「お話がよく分からない。でも、絵がテレビアニメみたい(ーεー)」と厳しい評価を下してました 。
これも気になるところなんです。宮崎駿氏の「となりのトトロ」を見たとき、なににびっくりしたかっていうと、背景の草や木が「草」や「木」じゃなくて、ひとつひとつの個体がそれぞれの種を特定できそうなほどに緻密に描かれていたことなのです。
この解説本に載っているシーンだけなのかもしれませんが、映画「ゲド戦記」のは、娘のいうテレビアニメのように、草が単なる「草」に退化してる——。アースシーの魔法の基本は、まずは人や物事の真の名前を知ることですよね。ところがこの映画では、背景の草木が真の名前を知られることなく、打ち捨てられているのです。

宮崎吾朗氏はこの解説本で、背景ではなくキャラクターについてなんですが、「絵が緻密だと、どうしてもそちらに見入って台詞を聞かなかったりするでしょう。でもゲド戦記は、原作が言葉によってなりたっているような作品です。だから、言葉がきちんと伝わるようにしたかった」と書いています。
これはちょっと変ですよね。だったらわざわざ映像化する必要はないでしょう? 原作が言葉で語っているものを、目に見えるかたちにする——直訳的・即物的な描きかただけでなくて、象徴的な方法もあるでしょうに、それが映画が小説とは別のジャンルとしてある意味じゃないのかなぁ...


原作者Ursula K. Le Guinさんの"Gedo Senki, a First Response"を読んだら、UKLさんも映画のできぐあいを歓迎していないようです。
(これはUKLさんのサイト http://www.ursulakleguin.com/ に載っています)


それにしても、「ゲド戦記」というシリーズ名がよくなかったですね。岩波書店が付けたんでしょうか。
小学生のころ「ナルニア国」ものがたりに夢中だった私も、『影との戦い—ゲド戦記I』が出た時には、すでに反戦思想を固めていたので「戦記」ということばにじゃまをされて、このシリーズに接する機会をいままで失っていました。
原作者が呼んでいる"The Books of Earthsea"というシリーズ名にしてくれていればよかったのに。