幹線道路から右へそれると、ごく緩やかな登り坂。
車は通らない。舗装もされていない。道の両側は畔のようにきれいに刈ってある。
明るい穏やかな陽がさしている。
坂のてっぺん(あまり緩やかなのでてっぺんともいいにくいけど)の右側に参道の入り口がある。尾根が平地に降りきるその少し上を横ぎる形で坂道が通っていて、その尾根にそって参道が登っているわけだ。
参道の入り口には灯篭や松並木があるだけで、鳥居や山門はない。お寺なのかお宮さんなのか分からない。
……これもいつだったか、うたたねで見た夢。ここには行ったことがない。どこなのか、それすら分からない。夢では坂道の途中から参道の方を眺めているだけ。その明るい陽の中でぼんやり喜んでいる。
ひいおばあさんが古布などを入れていたみかん箱ほどの木箱に、高野山だろうか、お寺がいくつもある山の絵が貼ってあった。その中の道なのかもしれない。
……いつか私がその参道を登っていく日が来るんだろうな。向こうで母が待っているかもしれない。
2015年3月25日
2015年3月24日
入れ子の夢
うたたねをするといやな夢をみる。
子どもを一人亡くしてしまう。
溺れてしまったのだ。
探して探して、見つけた時には、手のひらに載るほど小さな体になっていた。その小さな冷たい背中を撫でてやる。
私は疲れて眠っている。
どこなのか、大きな吹き抜けのあるコンクリート造りの家。いとこの誰かのところなんだろうか。
インターホンでそこの奥さんが「これなに?」と夫に尋ねる。「オウゴンゾウムシだな。珍しいから写真に撮っておきなさい」と応えている。屋上ではそこのうちの子ども(成人している)たちがバーベキューで歓声をあげている。
下階に降りていくとお寺のような広いよく磨かれた木の廊下。「あ、お父さん」と私を見つけてうちの娘が声をかける。三男もいる。私はそのまま廊下を歩いていく。どこへ?
…というところで目が覚めたので、起き上がる。うたたねをしていたつもりなのに、ズボンもシャツも脱いでいた。
ズボンを履きかけたところで、本当に目が覚めた。
(溺れた子どもは長男でも次男でもないと思う。その前、生まれてこなかった二人の子どもたちなのかもしれない。)
子どもを一人亡くしてしまう。
溺れてしまったのだ。
探して探して、見つけた時には、手のひらに載るほど小さな体になっていた。その小さな冷たい背中を撫でてやる。
私は疲れて眠っている。
どこなのか、大きな吹き抜けのあるコンクリート造りの家。いとこの誰かのところなんだろうか。
インターホンでそこの奥さんが「これなに?」と夫に尋ねる。「オウゴンゾウムシだな。珍しいから写真に撮っておきなさい」と応えている。屋上ではそこのうちの子ども(成人している)たちがバーベキューで歓声をあげている。
下階に降りていくとお寺のような広いよく磨かれた木の廊下。「あ、お父さん」と私を見つけてうちの娘が声をかける。三男もいる。私はそのまま廊下を歩いていく。どこへ?
…というところで目が覚めたので、起き上がる。うたたねをしていたつもりなのに、ズボンもシャツも脱いでいた。
ズボンを履きかけたところで、本当に目が覚めた。
(溺れた子どもは長男でも次男でもないと思う。その前、生まれてこなかった二人の子どもたちなのかもしれない。)
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