2005年10月18日

イスカンダル

「アレクサンドリア」ってアラビア語で書くと、
الاسكندرية
となって読み方は、
アル・イスカンダレイヤ
...え!? 「イスカンダル」?? じゃ、その隣は……
الغملون   アル・ガミロン
……なんてわけないですよね。

(このページはutf-8なのでマルチリンガルな書き方を試してみました。一部をアラビア語表記にしています。他のPCやMac、unixなんかではどうみえるんでしょう? うまく見えない方もあるでしょうが、試みなので許してください。)

2005年10月14日

この「風景」を現出させては...

いきのこつた一匹のしやうじやう蠅が自分の影に追はれて
まひまひしてゐる。

年月がゆき、ペトンで固めた角ばつた地球は、
最後の栓をとぢた。
……もう誰もゐない。
これは金子光晴の『鬼の子の唄』から「風景」、その冒頭です。高校で使った教科書に載っていました。この詩についての授業はなかったのですが、それから30年、記憶に残り続けています。

先日、岩波文庫の『金子光晴詩集』(清岡卓行編)が復刊されているのを見つけて買いました。さっそく「風景」を読んで驚きました。
「昭和一七・九月」という日付がつけられているのです。

私はこの「風景」が核戦争のあとのことだとばかり、思っていました。まだ多くの国民が「神風」を信じていたころに、金子さんは、いったいどのようにして、こんな「風景」を描くことができたのでしょうか。
さんらんたる石女よ。
第2 次世界大戦は、この「風景」にまで突き進みはしませんでしたが、地上の大半をまきこんで終わりました。自分たちを戦争に駆り立てた国家を自ら打ち倒してつ くったものではなく、連合国から与えられたものであるにせよ、日本国憲法が歓迎されたのは、もう戦争はこりごりだという当時の国民多数の実感によるもので しょう。
いま、戦争を知らない人たちが、憲法9条2項を変え、平和主義を骨抜きにしようとしています。憲法の精神を実現することをかかげた教育基本法を変え、国民を国家の道具とした戦前の教育に引き戻そうとしています。侵略戦争の加害責任すら否認しようとしています。
私も第2次世界大戦は知りません。しかし、歴史は学ぶことができます。また、今この瞬間にもイラクはじめ世界で武力による抑圧や戦闘は現に起こっています。
不用になつた空のきよさ。あかるさ。やさしさ。
核の時代、次の世界大戦では金子さんが予言した「風景」が現実のものとなるでしょう。私たちは「石蚕」ではありません。「叡智あるヒト」として、歴史を逆行させようとするものとたたかいたいと思います。

(きょうはちょっと気負い過ぎましたね。でも、たまにはこんなのも書かせてください)

2005年10月13日

おはようございます、L. amplexicauleです

みなさん、おはようございます。
やっと目をさました私たちです。秋も半ばに、なにを寝ぼけて...と思わないでください。寝坊したわけじゃありませんよ。
これから冬にかけて、周りに背の高い草がなくて、お日様がたっぷり当たるんです。寒い日もありますけど、まあ、多少はがまんできます。
春や夏ほどお日様は強くないけど、ちょっとした節約もできるので、大丈夫です。きれいな花をひらかなくても、つぼみのままでしっかり種を作れますからね。もちろん、春になればお花の贅沢はしますよ。

私たちの双葉は直径3mmほどです。写真まん中あたりの私はもう、本葉を一組広げています。その左下には、大きめで、すこし紫がかった双葉があるでしょう? これは弟のL. purpureumです。田舎の方では、白く清楚な花をつけるL. album姉さんも、いまごろ目をさましているでしょうか。私もほんとうは畑のやわらかいところで目ざめたかったんですが、都会ではそうもいってられませんね。

2005年10月12日

「Edward Steichen: portrait」展

芦屋市立美術博物館で11月6日(日)までひらかれている「エドワード・スタイケン:ポートレート」展を観てきました。
ルクセンブルグ国立歴史美術博物館収蔵のEdward Steichen作品の中から、52点ポートレートが展示されています。1901年から1910年の作品が22点、1922年から1936年が28点、制作年不詳が2点です。作品は制作年順に並べられています。

1910年までの作品は「ピクトリアリズム pictrialism」なのでしょうか。このころの写真はネガから直接印画紙へ引き伸すのではなくて、さまざまな技法で画像に手を加えていたそうです。今回、展示されている作品も(どういった技法が使われているのかはわかりませんが)背景など筆やパレットナイフでこすったような感じがしますので、かなりの加工がほどこしてあるようです。
こうしてオリジナルプリントを観るとよくわかりますよ。
この時期のものの最後に、ピクトリアリズムからストレートフォトへ脱却して近代写真へ踏み出したアルフレッド・スティーグリッツを被写体とした作品が置かれているのは興味深いことです(そして、この作品はあまり絵画的ではないのです)。

壁を変え、その次に展示されているのは1922年の作品です。この間にスタイケンは第一次世界大戦に従軍しています。この戦後、1922年の作品からは、にじませるようなピクトリアリズムの技法は消えて、シャープにピントが合い、階調も幅広い作品が並んでいます。スタジオではなく戸外で撮ったものもあります。現代の私たちが「ポートレート写真」として見慣れた雰囲気の写真です。
第一次世界大戦は、欧米の人々の価値観に大きな変化を与えたといいます。スタイケンの作品の変化にもこの大戦が影響しているのでしょうか。

現代の私にとっては、なんだか、1910年までの作品の方が新鮮に感じられました。

2005年10月10日

ナヌムの家訪問報告会

神戸女学院大学石川ゼミのみなさんが、韓国「ナヌムの家」を訪問したことは、9月18日付記事で紹介しましたが、その報告会がひらかれます。
  • 日時:10月24日(月)午後3時から5時くらいまで
  • 会場:神戸女学院大学ジュリア・ダッドレー記念館1階会議室
  • 参加条件:学外もふくめ自由参加(無料)
  • 詳しくは:石川先生のサイト

会場までの道順は神戸女学院のサイトの「学内案内図」と「交通アクセス」をごらんください。

2005年10月9日

龍野からさらに43分

10月1日に佐用郡4町が合併して、新しい「佐用町」になりました。
そのうち一番東、姫路よりにあるのが旧三日月町。姫新線三日月駅から志文川を1kmほど遡った徳平集落のあたりから春哉集落を望んだのがこの写真です。左の方の高い山が旧南光町との境にある御殿山(標高351m)でしょう。
この辺は標高110mほどのところを川が流れ、まわりに標高200から300mの山が並んでいます。
10月6日朝8時半ごろです。雲は集落のすぐ上にあります。空はほんの近くなのです。

2005年10月5日

ともだちの「せと恵子」さんが神戸市長選挙に

ともだちの「せと恵子」さんが神戸市長選挙に立候補することになりました。

せと(瀬戸)さんは長田で阪神・大震災に遭遇。夜が明けて外へ出てみると、アパートの周りの家はつぶれ、大家さんも亡くなっていたといいます。せとさんは幼い娘2人をつれて垂水の実家へ避難することができたのですが、地震から1週間もたたないうちに当時の笹山幸俊神戸市長が「(復興のためには)空港が当然必要」だといったのに驚いたといいます。
その後、せとさんの危惧どおり、神戸市は、被災者の生活や営業の再建の支援より、神戸空港はもちろん、新長田駅南再開発など大規模な開発に熱中していきます。
「空港よりも住宅を」と、市民の運動が広がり、「空港建設の是非は住民投票で」の条例制定直接請求には有権者の27%(30万人)が署名しました。

こうした世論の高まりの中でおこなわれた前回市長選挙では、笹山前市長の後継としてたった矢田立郎氏も「変えます、開発から環境と福祉へ」を公約に掲げざるを得ませんでした。
しかし、当選後、この公約はどうなったでしょうか? やめた開発はあったでしょうか?(六甲アイランド南の埋め立ては止まっていますが、いつでも再開できる状態にしてあります)。福祉は充実したんでしょうか? 高齢者や障害者、乳幼児の医療費助成制度も縮小されましたし、いま、公立保育所の民営化も進めて いますよね。

せとさんは、住民投票運動など、ずっと市民の運動にかかわってきました。甘いものは好きだし、マンガも描くし、恋愛観察バラエティ番組(「あいのり」ですね :-) を毎週楽しみにしているし、友だちが結婚すると聞けば祝う会の実行委員に手をあげるし、自宅ではハムスターやプレーリードッグ、インコなど動物たちが走り回っているし、それに、自分で「美人だ」と思っているし........まあ、「ふつーの長田の2児の母」なんですが、実は、2、3年前まで日本共産党神戸市議団の事務局員 (他の会派だと“政策秘書”かな)として10年あまり市政分析などにあたってきて、地方自治にはめっぽう詳しいんです。

せとさんみたいに市民のくらしも分かり、行政にも詳しい人が市長になったら、私も多少は神戸市を愛せるかもしれません。(私はいまだに旧有馬郡出身者のつもりです)

せとさんについて詳しくは:
神戸再生フォーラムのページ