2010年7月13日

ごくわずかな少数派がなすべきことは

ちょっと古い文献から…
 ロシアにおける現在の時機の特異性は、プロレタリアートの自覚と組織性とが不十分なために、過渡〔権力をブルジョアジーにわたした革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力をわたさなければならない革命の第二の段階への過渡〕ということにある。
この過渡は、(1) 最大限の合法性があること、(2) 大衆にたいする暴力が存在していないこと、(3) 平和と社会主義との最悪の敵である資本家の政府に対して、大衆が軽信的=無自覚的な態度をとっていること−−を特徴としている。
このような特異性がわれわれに要求するのは、ようやく政治生活に目ざめたばかりの、かつてないほど広範なプロレタリアートの大衆のあいだでの党活動の特殊な諸条件に、われわれが適応する能力をもつことである。
 ...いっさいの小ブルジョア的な日和見主義分子のブロックにくらべて、わが党が大多数の労働者代表ソヴェト内で少数派であるという事実を、しかも、いまのところわずかな少数派であるという事実を、みとめること。
労働者代表ソヴェトは、ただ一つ可能な革命政府の形態であり、したがって、この政府がブルジョアジーの影響のもとに陥っているあいだは、われわれの任務は、忍耐づよく、系統的に、根気よく、とくに大衆の実践的必要に適応したやり方で、彼らの戦術の誤りを説明することのほかにはありえないということを、大衆に説明すること。

レーニン「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」(1917年4月7日『プラウダ』)/大月書店版全集第24巻に収録されているものを少し書き換えました。

これは、10月革命の年、亡命先からの帰国直後に発表したテーゼの一部です。当然、現在の日本とは違う状況に対するものです。

しかし、日本も1945年の終戦、1946年の日本国憲法施行により、国民を主権者とする国にかわったものの、現在、大多数の国民がほんとうに主権者となっているのかどうか、という点では、レーニンのいう「過渡」……とても長い過渡期にあるのかもしれません。

10月革命前の「過渡」の特徴としてあげられている (1) (2) はそのまま現在の日本に当てはまります。(3) はというと…「最悪の敵」とか「軽信的」とか、レーニンらしく、激しい言葉(しかも“上から目線”)が続いていますが、これもけっこう日本に当てはまるかもしれません。どうでしょう?

そして、ほんとうの国民主権を実現するという革命の第二段階をめざす党が、国会や地方議会で「わずかな少数派」だということも、また、現在の日本の状況ですね。

革命党は少数派で、しかも今世紀に入ってからは低迷を続けていますが、一方、国民は全体として、長かった自民党政権を昨年の総選挙で終わらせ、その国民の期待に応えず右往左往した民主党政権に対し今回の参議院選挙で厳しい判断を示しましたから、歩みを前へ進めていることも10月革命前と同じでしょう。

こうした状況で、革命をめざす党の任務が「説明」……「忍耐づよく、系統的に、根気よく、とくに大衆の実践的必要に適応したやり方で」説明することだと、レーニンは言っていたわけです。


私たちに足りないのは、この「説明」の力なのかな……。きっとそう。

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